Rebornー新宿「茶房青娥」

茶房青娥 (昭和22年〜56年)は新宿東口の三越(今はビックロ)裏手から追分に延びる路地(今はない)に存在した伝説の喫茶店である。(昭和30年に区画整理により甲州街道寄りに移転)

  1947年開業ということは敗戦後たった2年後のこと。新宿という街は、まだまだ闇市やバラックが乱立し、カオスの様相であったろう。店主の五味敏郎さんは、敗戦を機にそれまで勤めていた富士写真フィルム(現在の富士フィルム)を辞め、画家志望の彼が、絵を描く時間をつくるようにしたのが開店の理由と聞く。今はなき名曲喫茶《新宿風月堂》も前年に開業している。彼の嗅覚がやがて文化の発信地となる新宿を嗅ぎつけたのかも知れない。でもそんな混迷の時期、果たしてそんな理由だけで開店に至ったのだろうか。

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 その頃娘の美里さんはまだ2歳、生活物資も十分揃えることも難しい時代、いやそもそもこれから日本がどうなるかも見通せないこのタイミングで、伊達や酔狂で「喫茶店」などやれるものか。会社に残り、安定を選んでいいはずだ。東京で復興の兆しが実感できるのは、昭和30年頃になってくらいだろう。貧すれば貪する。経営が成り立ってこそ、画家として生きて行かれるなんてことは、子供でもわかることだ。いやもしかして伊達で酔狂で大胆な粋人だったのかも知れない。(笑)

  きっと彼には捨身ともいえる何らかの信念があったのではなかったか?

馬鹿げた戦争で命を亡くす現実を見て、自分の自由な人生を全うしたいと‥。
そして他の人にも自由な時間や空間を保証しなければと‥。
戦争で荒んだ心をこの隠れ家で癒してくれればと‥。
皆が個人の感性と教養を磨いて、一人一人が成熟し、二度とこの茶番が起きない時代が訪れる ように‥。

 そう思ったのにちがいない。だから永きの間、厳格な店主であり続けられたのだろう。静謐を守る番人を全うできたのではないか。‥‥まったくの私の勝手な推測だ。笑

81年、五味氏が65歳の時、「青娥」は閉店し、彼はその8年後に亡くなる。三越、伊勢丹、中村屋、風月堂、ローレル、アカシア、紀伊国屋書店、末広亭、赤テント‥、文化の香りを醸し出す新宿は、ビルが割拠し、shinjukuに変わる。

東中野の新「青娥」外観

東中野の新「青娥」外観

  今年、御父上が鬼籍に入った齢を目前にした娘の美里さんが、東中野 のご自宅の1Fに再び「青娥」のランタン を灯した。 女学生の当時、たまにしか訪れなかった父の店であったが、だからこそ彼女の脳裏に《当時》が鮮明に焼き付いているのかも知れない。店の再開だ。ナラの暖かい木目のテーブル‥‥、当時のままの調度品が並ぶ。地下の水脈はやがて清冽な湧水となって地上に溢れた。

 お父様の感性を頑なに継承しようとする意志と同時に、時代の変遷 の中でたおやかな変化を模索しているように見える。                    ( PDF再開のチラシ)

ネルドリップの美味しいコーヒーと青娥が刻まれたレモンクッキー

ネルドリップの美味しいコーヒーと青娥が刻まれたレモンクッキー

店内

店内

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コメント
  • 今村力 より:
    ほんとうに久しぶりに新宿青蛾 目にいたしました。 青蛾の珈琲の如く、香りいっぱいの苦い思い出の青春の味です。