優しいと生きられない?
  -栃木リンチ殺人事件 (2000.5)

先日テレビで、凄惨なリンチの末に殺された栃木県の須藤正和さん(当時19才)のご両親がインタビューに応えてお話されていました。その中で「優しすぎるほど優しく育ててしまった私たちが悪かった。」と悔悟の念をおっしゃっていました。そして5月23日の宇都宮地裁での主犯格の男に対する無期懲役の判決後、お父様は、絶対死刑にしてもらいたいときっぱり言っていました。

 それは、この犯人に対してだけではなく、いつの間にか「情」とか「やさしさ」がおぼろになってしまったこの世の中に対してつきつけた意思表明ともとれました。「あの子の優しさがなぜ悪なのですか?」と。

 たしかにやさしいだけでは生きていけないのかも知れません。でも、人間が人間である以上、そして他者と生きている限りやさしくなければ生きる資格はないとも思えます。子供や人間にとって、何がほんとうにだいじな核なのか、そしてそれを何に付加すべきものなのかをはっきりと分けて考える必要があると思うのです。もしかして「普通の子でいいから健康に育ってくれれば」という親の素朴な愛情だけでは、子供たちは今、様々な現実を乗り越える知恵や意志が足りなくなるのかもしれません。

 例えば、科学者。より速く、より高く、様々に科学技術の水準を上げることが彼らの仕事であり、役割であるわけです。しかし、その技術はいっぺんに何億の人々を殺戮する兵器にもなります。遺伝子工学、クローン人間がつくれるようになれば、新たに様々な生命の倫理観が問われることになります。だから、知識をたくさん持っていても、それは付加的なもので、そのもとになる核はなにかということが重要になるのです。それが哲学というものです。知識は力といいます。もし被害者の彼が世の中をわたっていくためのより多くの知恵があれば、もしかしたら、結果はちがっていたかも知れません。だからといって、優しさや素直さはむしろ唾棄すべきもので、人を屈服させる「強さ」こそがこの競争社会では美徳なのだ、ということになってはいけないと思うのです。彼の優しさを否定することは自分が人間であるということを否定することではないでしょうか。

 

 

 お父さん、お母さん、本当に素晴らしい子に育てたのはあなた方だと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

(MJ通信  雑感  2000.5)

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