原爆の図丸木美術館

 

 丸木位里と俊 二人の胸  像が出迎えてくれる

丸木位里と俊 二人の胸
 像が出迎えてくれ

丸木位里(いり)と丸木俊(とし)1967年に東松山のこの地に転居し、自宅、アトリエ、ゲストハウスなどと合わせて《原爆の図》を展示するための美術館をつくった。位里は1995年に94歳そして俊は200088歳までここで絵を描き続け、この世を去る。

位里と俊、名前の語感では男女あべこべの感じがするが、位里が夫、俊が妻の11歳差の夫婦だ。

二人は結婚後、現在の東京豊島区長崎町のアトリエ村に暮らしていた。疎開先の浦和で原子爆弾投下を聞いた位里は89日、生まれ故郷の広島に駆けつける。実家は爆心地から2.6km離れた三滝町に焼け残ってあった。その後、俊も合流して、ふたりは焼け野原の広島に一ヶ月間ほど滞在する。そして実際の悲惨な光景を目の当たりにしたのだ。

爆心地では6000度の太陽が瞬間的に目に前に出現したことになる。命はたちまちに蒸発し、石に熱転写した跡以外は何も残らない。だから正確に言えば、何びともそれを見ることができないし、話を聞くことも不可能なのだ。

 数年後、丸木夫妻は「原爆を描こう」と決心し、《原爆の図》を描くためにこの二人の画家の共同作業が始まる。位里の水墨画の技法と俊の油絵の手法がぶつかり、調和する。

1950年夏、最初の三部作「幽霊」「火」「水」が完成する。この美術館の順路で最初の部屋に並ぶ作品たちだ。

 彼らはあの時の地獄図絵を、単なる写実だけではなく、見る人たちの想像力を最大限に呼び起こすことができるように、必死になってリアリティを絵の力で伝えようとしたに違いない。それらは目を背け嘔吐するほど醜い傷ついて破壊された身体と心を表現することであり、一方では人間の愚かさを底からえぐり出す作業に他ならない。

1956年に10部《署名》を、そして1972年には14部《からす》、82年に第15部《長崎》、結果としてこれで《原爆の図》の連作は最後となった。

1985年に描いた《地獄の図》は、絵という表現を中心としたそれまでの二人のさまざまな反戦の歩みにもかかわらず、結局は戦争や核を止めることができずに地獄に落ちる様を描いた自己批判的な作品である。

核爆弾は、一瞬のうちに何物も無にしてしまう威力をもち、生物の遺伝子まで作用する。それまで人類が経験した火薬の爆弾とは異次元のエネルギーをもつ凶器だ。しかし、原子爆弾がさほどに非人道的と言っても、あらゆる戦争は人道的でないわけで、戦争は必要悪として認めるが、この兵器は非人道的だからやめるべきだというのは理屈が通らない。

そして唯一の被爆国日本が核の驚くべき破壊力の見せしめになったからこそ、世界はその核兵器の脅威によって、その傘の下で不戦の均衡が保たれていることもどうしようもない皮肉な現実なのである。

理屈やイデオロギーで反戦を唱えると、鬱蒼とした森の中をぐるぐる巡って、またいつのまにか出発点に戻っていることになる。

 

彼らが描いた《原爆の図》の最初の三部は、感情や使命感に突き動かされて産まれた作品であり、それは侵してはいけなかった神の領域を蹂躙した人間の愚行の告発であり、悔悟であり、誓いであったはずだ。

それで十分なのだ。よくぞ描いてくれたと祈らずにはいられない。

この《原爆の図》の始まりは、一部「幽霊」の左端の妊婦だという。ここから描き始まった。そのすぐ右下に光があたっているように白く輝く赤ん坊の健やかな寝顔も印象的だ。

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いつか読んだ詩 栗原貞子さんの「生ましめんかな」が頭に浮かぶ。

『こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
  
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも』

不戦や反戦と声高に叫んでも、変わらずに人類は戦争を繰り返す。それは歴史が証明してきた。私たちおとなは、人間同士が殺し合いをすることのおぞましさ、いたましさ、くるしさ、かなしさというあたりまえの情感を子供たちと共感し育むことができる。反戦や厭戦の意識はその感性の上にしか積み上げられない。それはおぞましいものを見せつけるというよりむしろその対極にある、生けるものに対する愛情や他者への寛容さ、そして生きることの喜びの気持ちから培うことができる。特に平和な今にこそその感受性を醸成させることが重要だと思う。

湾岸戦争のテレビ映像の中では、花火のような閃光が見えるだけである。ボタン一つで地獄を再現できる兵器がさまざまに進化する。その先で恐ろしい殺戮がが起きていることなど並大抵の想像力ではイメージできない。現代は本質が見えにくい。

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美術館でしばらく絵を見ていると次第に絵に慣れて、最初は衝撃的だった感情も慣れて、感覚が鈍化していく。思考も停止していく。

私と関係ない昔々のちがう世界、御伽噺のような光景に見えていく。

怖い怖い。

外に出て澄んだ空気を一息。裏手の崖の下には都幾川がのんびり横たわる。

位里は故郷広島の太田川の風景に似ているとこの場所に移住を決めた。秋のおだやかな陽光が川面でキラキラと反射している。

75年前の夏、「熱い熱い」と飛び込んだのが太田川だ。

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