「無法松の一生」のお話(その2)
ー第33回国際映画祭「ウォール・オブ・フェイト〜」

 爆弾と同じニトロセルロースという原料を使うフィルムが、もはや不要不急の映画制作になど使えない。映画人は映画自体の存続を憂慮する。戦争に勝つことに協力すること以外に目的をもってはならない映画、この「無法松の一生」は2回の検閲を受ける。一度目は国威発揚に反することがないかどうかを日本国が見定め、そして二度目は一度目と反対に、国威発揚を悪とする米国GHQによるチェックである。

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 陸軍大尉の未亡人に小学校も出ていない車引ごときが恋心を抱くなどもっての外、軍人への不敬、女々しい情感は当然ご法度の宿命だ。逆に、軍人の妻が、匹夫に恋慕の気持ちを抱かせるとは不徳極まりないとも批判される。検閲官と制作会社の意向の間で葛藤した後、稲垣浩監督、カメラマン宮川一夫は、涙ながらにフィルムにはさみを入れた。マッつあんがオカミサンに想いを告白しようとするシーンも含めて約10分間のフィルムを切った。これが1943年版の映像だ。今では、松五郎の抱いた恋慕の想いは、オカミサンに似た映画のポスターが風に揺れることで想像するしかない。皮肉にも、それが美しい追慕をより純化させた形で想起させる。

 一方、戦後は日露戦争祝賀パレードなどのシーンがGHQの検閲によって8分間ほどカットされる。この部分のフィルムは、故宮川一郎の遺品から発見され、特典映像として収録されたDVD2007年に角川エンターテイメントから発売されている。

 そして1958年、稲垣監督は、検閲前と同一の伊丹万三の脚本を使った完全版がベネチア映画祭で金獅子賞を受賞する。主演は三船敏郎、ヒロイン吉岡夫人は高峰秀子が演じる。過去の無念を晴らし、さまざまな圧力から解放された本来の自由な表現の映画の姿を披露したのだ。着古した藍の法被、色褪せた煉瓦の質感、夫人の束ねた髪の黒い艶、夕焼けの茜‥‥このカラー作品で引き立つが、何より同じ脚本で演じる役者の味わいそして演出の違いが妙味を醸し出す。

 松五郎は心に秘めた恋心を伝えようと意を決するが、やはり言えない。その伝えきれなかった未練の想いと二度と会えない辛さを消し去るために酒の力を借りる。片手に酒瓶を持ち酷くやつれた薄汚い車引が、雪の小倉の坂を徘徊する。そして心臓を押さえて雪に埋もれる。このシーンがあるかないかは、作品を根底から変える部分に違いない。軍人の未亡人に恋した車引が、身分の違いで思い叶わず、酒に溺れてのたれ死んでしまうのだから。

 当時の大衆はこんな松五郎にシンパシーを感じるのだろうか。このいわば男性と女性がひっくり返ったような情感は世界でどう評価されたのだろうか、気になるところである。

きっとこんな情けない松五郎は見たくないと思う人も少なくないだろう。特に、吉岡のボンボンはそうだと思う。()

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 終戦75年の今年、コロナ禍の中、43年版の修復プロジェクトが始動する。宮川一郎を恩師と仰ぐ撮影助手の宮島正弘氏の情熱が拍車をかける。映画を所蔵するKADOKAWA と映画修復専門のアメリカのシネリック社が、京都文化博物館と巨匠マーティンスコセッシが設立した映画保存団体の協力のもとで4Kデジタル修復版の完成に至った。映画が生まれて100年、世界中でフィルムの劣化により膨大な映画資産が失われている。デジタルに置き換わった作品は第77回ベネチア国際映画祭のクラシック部門に選ばれ、8月にイタリア・ボローニャで上映された。そして今回の国際映画祭で本編上映の前に山崎エマ監督のドキュメンタリーフィルム「ウォール・オブ・フェイト〜映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命」が20分間上映され、修復にいたるプロセスそして関係者それぞれの思いを知ることができた。

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 この映画祭の日本クラシック部門では、早出の天才《山中貞雄》がメガホンをとった名作「丹下左膳餘話 百萬兩の壺4kデジタル修復版も同時に上映されている。女房に頭が上がらないへなへなな左膳のカッコ悪さが笑えるホームコメディ仕立ても山中監督の革新性といわれる。新進気鋭の山中貞雄はわずか5年半の間に二十数本の映画を撮るが、現存するのはわずかに三作だけである。フィルムは当時の国策映画に再利用されたり、発火したり、紛失したりしてしまったのだろう。残っているフィルムも長年の時に抗えず劣化が進む。今回の修復の結果、音声がクリアになり、抜け落ちていた19秒間のシーン、ヤクザ者集団相手に、一人立ち向かい、バッタバッタと切り倒す息も切ることのできない見事な立ち回りの場面が復活している。デジタル技術によって結合させることができたのだ。剣豪左膳の真骨頂だ。

 遺作となる『人情紙風船』の封切りの日に赤紙(召集令状)が届き、中国に渡って従軍する。しかし一年後の193828歳にして病に倒れ、帰らぬ人となる。ここでも戦争は若い才能を奪う。

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 無声映画からトーキーへと変わる節目の日本映画の黎明期

 映画人たちは戦争の足音の中、映画の行く末を案じ、娯楽によって人々に幸せな気持ちを与えることを必死で模索した。

 今、75年を経て、戦争の傷跡が修復される。

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 上映後、関係者の方々が皆揃ってご挨拶をする。山崎エマ、山崎さんの夫で修復作業に携わった方、KADOKAWA の担当、この仕事が終わらないと死ねないと言って作業を促した宮島氏、ドキュメンタリー映画に挿入したアニメーションの作家古川タク氏、宮川一夫の御子息の宮川一郎氏、そして阪妻の長男で俳優の田村高廣氏。

 若いKADOKAWAの担当者が神妙に語っていたのが印象に残った。

「この作業を通じて、反戦の気持ちが強くなりました。」

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