街探訪
壱ノ弐 「吉原」といふ処
 ―錦絵でみる江戸文化

 街探訪の続きー 山谷から「土手の伊勢屋」の前を通り、吉原大門の交差点に着く。江戸から明治までの約300年にわたり、形を変え、質を変えて脈々と続いた大人のテーマパークがあったところだ。廓の中に閉じ込められた遊女たちの悲しい物語とともに、今では忌み嫌われるところかも知れない。しかし特に江戸時代、庶民は美しい花魁の錦絵に群がり、髪型や化粧、服や着こなしに感嘆する。芸を身につけた教養深い上級遊女の立ち振る舞いに憧れすら抱く。吉原は様々に風俗、文化を発信し、浮世絵、謡、歌舞伎や落語、芝居などにも欠かせない存在となっていた。良し悪しは別に、「文化」そのものであった。時代を越えた江戸の吉原を探訪してみた。

写真②  左角に「見返り柳」

写真②
左角に「見返り柳」

写真① 右に曲がるS字カーブを通ると吉原大門跡

写真①
右に曲がるS字カーブを通ると吉原大門跡

吉原の入口。今は吉原大門という名がついた交差点がある。 写真①手前の大きな通りは現在、土手通り(台東区名称)といい、写真向かって左側に進むと、馬道通りを経て浅草寺方面、右は三ノ輪駅周辺に続く。江戸時代、この辺りは隅田川に沿う自然堤防の脇の広大な湿地帯で、この道があった場所は、浅草聖天町から三ノ輪まで荒川の治水工事にともなって築かれた人工堤防(日本堤)があった。江戸時代、この日本堤の上は見晴らしのよい街道となり、起点となる浅草聖天(現在の浅草7丁目)からここまでの距離がほぼ八丁(約870m)ほどの長さがあり土手八丁と呼ばれた。道の脇には、葦簾張りの水茶屋や屋台が多く立ち並ぶ。吉原に遊びに行く客は、日本堤を通り、そこから西に折れた三曲がりの五十間道進み吉原の大門にたどり着く。大門に至る約100メートルの五十間道のとば口には坂(衣紋坂)があり、そこを下って進んでいく。両側には引手茶屋が並ぶ。陸路にしろ、柳橋の船宿から舟で颯爽と乗りつける場合にしろ 、最後には、日本堤を時に歩き、馬で、籠で進み、衣紋坂を下って大門にたどり着いた。現在も土手通りから右に曲がるS字カーブが当時の面影を偲ばせる。(写真①)写真②の交差点向かって左手にある柳の木は、江戸時代に「見返りの柳」といい、現在碑とともにこの場所に植樹されている

③東都名所 新吉原 (広重)

③東都名所 新吉原 (広重)

 

左③江戸後期の広重による吉原の絵。広重は吉原を題材に数多くの風景画を描いている。それだけ吉原が江戸名所として欠かせない場所であった。それは単に景色だけでなく、現世に対する虚ろなパラダイスとして生まれた必然を、人間や社会の業を軽妙に再現しているのかも知れない。 手前に連なる屋根と桜(演出のため人工的に植える)から左に衣紋坂、それと垂直に横に走る日本堤を通る人や駕籠の影が見える。角には広重の絵で象徴的な見返り柳と高札がある。

 

 

 

江戸八景 「吉原夜の雨)」 (渓斎英泉 江戸後期)

江戸八景 「吉原夜の雨)」 (渓斎英泉 江戸後

 

④は渓斎英泉の。 雨の中、日本堤(吉原土手)を行き交う様子。手前が浅草方面で、道が左に蛇行した先に、見返り柳が見える。その坂(衣紋坂)を左に下ると、絵の左中央に黒ぶちの窓枠のような中が明るい大門が見える。

 

 

 

④名所江戸百景 よし原日本堤 (広重)

④名所江戸百景 よし原日本堤 (広重)

「東都名所 新吉原」(歌川国芳 江戸後期)

 ⑤は、日本堤の上の男衆が滑稽だ。遊び呆けた頰被り、何やら作戦会議をする二人。犬も寄り添って無心に寝ている。吹き出しに一言を入れてあそぶと面白そうな漫画仕立てである。月によってできる陰影、そして満月の大きな光輪の大胆さ、西洋画の影響を受け近代に一歩足を移す国芳の絵である。右奥に連なるのが吉原廓。

 ⑤も広重。月に雁、叙情的な印象と上下と遠近の奥行き感は、絵師広重の真骨頂だ。日本堤が人工堤防なのがよくわかる。左に蛇行した先、水墨画のようなモノトーンの木立の向こうに並ぶ白い屋根が吉原遊郭である。

 

 

下は広重の描いた吉原の俯瞰図。江戸の一大テーマパーク。この絵は江戸の観光案内であろう、方角的にあるはずのない富士山を置くのもそのための演出だろう。図中央下、日本堤から衣紋坂、五十軒道、吉原大門、桜並木の仲之町通りと続く。右上タイトル横に句が書かれてある。「闇の夜は 吉原はかり 月夜かな」江戸時代前~中期の俳人で芭蕉の弟子 宝井其角(きかく)の作品だ。師匠とはちがって酒飲みで派手な作風の其角のこの句は、歌舞伎や戯作でも広く取り上げられているものだ。この句には、区切る場所でまったく正反対の意味になるというトリックを仕組んであるいう解釈がある。聞き句という言葉遊びで、和歌の伝統でもあるテクニックを織り入れてあるという。《闇の夜は》《吉原ばかり月夜かな》とすると、周りに比べて煌々と明るい不夜城の吉原が浮かび上がるが、《闇の夜は吉原ばかり》《月夜かな》と切ると、籠の中で、身体を売ってしか生きられない遊女たちという世間の闇としての廓が浮き上がる。確かに其角ほどの俳諧師、前の解釈だとどこか陳腐な気もするが、江戸時代、吉原=「闇」という認識もやや違和感を感じる。真実は「闇」の中だが…。笑

東都新吉原一覧(広重 江戸後期)

東都新吉原一覧(広重 江戸後期)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五十軒道を進み、吉原大門に着く。左の絵は哀愁漂う広重に比べて、華やかな国貞の絵。北廓とは吉原のこと。仲之町通りの桜は演出用に植樹するディスプレイである。

「北廓 月の夜桜」歌川国貞(三代豊国 幕末期)

「北廓 月の夜桜」歌川国貞(三代豊国 幕末期)

 

吉原大門跡

吉原大門跡

 

 

 

 

 

 下左は、天才絵師葛飾北斎、独特な視点と構図で大門の往来を描く。右は歌川豊春の浮絵。浮絵は西欧の透視画法を用いた浮世絵の一つのジャンルで遠近法のお手本のような絵である。この豊春の門下に豊国、さらにその門下に広重がいる。

大門の左手に      。

「新板浮世絵吉原大門口之図」葛飾北斎 江戸後期

「新板浮世絵吉原大門口之図」葛飾北斎 江戸後期

IMG_2616

浮絵「 新吉原夕暮圖」歌川豊春 江戸中期

 

 

 

 

 

 

大門を通り、廓の中へと入っていこう。

 下の絵は、美人画で名高い歌麿が、その円熟期から晩年に至る15年間にわたって描き上げた手書きの浮世絵(木版画に対して肉筆画という)。「深川の雪」「品川の月」と合わせて江戸の遊所を舞台にした<雪月花>三部作のうちの一つがこの「吉原の花」である。紆余曲折を経て、現在はアメリカコネチカット州のワズワース・アセーニアム美術館が所蔵する。ため息が出るほどの華やかさ、白粉や鬢付けの香りが漂ってくる。花魁を新造や遊女たち、そして禿が取り巻き、茶屋の前の通りをそそと往く。二階では、武家の奥方が花見の宴の最中だ。精緻で巧みな描写力である。でも何か……変だ?? この絵には男性が一人もいない!男性の客の遊び場である廓、店には様々な男性スタッフもいるはずだ。52人いる人物すべてが女性、いや一人男性がいたが…。この絵がフィクションなのがわかる。女性だけにすることで絢爛豪華さが純化され。美しいお伽の園となっている。

「吉原の花」喜多川歌麿

「吉原の花」喜多川歌麿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IMG_2618前掲の浮絵画家歌川豊春が花魁を描くとこうなる。

満開の桜の下で新造や禿に付き添われた花魁道中が

繊細で美しい。

 

 

 

 

下は、北斎の画。美人画や続き物(この作品は五部続き)の少ない北斎の希少な絵である。

 

吉原楼中図(葛飾北斎 江戸後期)

吉原楼中図(葛飾北斎 江戸後期)

 

 

 

 

 

 

 

下の絵は、北斎の娘応為の肉筆画。吉原や廓を描いた他の絵とは明らかに異なる。応為は北斎の三女お栄の画号。「おーい」の呼び声からとったとか。光と陰、格子の中にいる人形のような無機的な花魁が灯火に照らし出されている。影絵のように幻想的でもある。

葛飾応為

吉原格子先之図 葛飾応為

 

 

 

 

 

 

 

 

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開業から 400周年ー吉原遊郭のはじまりそして終わり

1603年(慶長8年)征夷大将軍 徳川家康により江戸幕府が開かれると、都市整備が急ピッチで進む。開府以来の土木事業や街づくりに諸国から流入する労働者、武家に仕える奉公人、そして参勤交代で上府する家臣の多くが単身の男性である。当時の江戸の男女人口比は2:1と圧倒的に男性が多く、自然発生的にそこかしこで遊女屋が営業していた状況だ。

  1612年遊女屋の主人、庄司甚右衛門を代表として遊女屋を経営する旦那衆が幕府に遊郭の設置を陳情し、1617年に許可が下りる。営業の利権を守る遊女屋の利害と幕府側の利害が合致したのである。幕府にとっては、武士という男性主体の集団の統制を図り、社会の治安、風紀、秩序を保つためにも一か所に遊女を集め、郭町をつくることは合理的であった。吉原のみに売春業を営む特権を与え、江戸市内の性的秩序を維持するという役割を担わせる。犯罪取り締まり上の便益も兼ねる。また公的に認められたこの吉原遊郭は、経済上も江戸の社会システムに組み込まれ、遊女屋は幕府の後ろ盾がある金貸しから多額の融資を受け、収益の一部は上納金として幕府に納めていた。結局のところ公営のこの売春業は、幕府にとって非常に重要な資金源でもあった。こうして1618年(元和4年)現在の日本橋人形町の近くの湿地帯に場所が提供され、日本初の公娼制度が始まる。
葦原(悪し原)を良し原→吉原としてこの場が名づけられた。(元吉原)
その後「振袖火事」といわれる明暦の大火(1657)を機に、現在の浅草寺の裏手、日本堤に移転する。東京ドーム約2個分の広さで四方周囲を堀(お歯黒ドブ)と塀で囲まれたワンダーランドだ。(新吉原)

  当初は、武士・大名御用達の格の高いお遊びに象徴された庶民の羨望の吉原も、時代とともにその対象は財力のある商人や町人に移り、次第に大衆化されていくが、この吉原が江戸文化を象徴し、その醸成の一翼を担っていたことは確かである。

   1872年(明治5年)、近代化を進める明治新政府が発令した《芸娼妓解放令》が吉原を変える。マリア・ルス号に関する国際裁判で、人身売買の指摘を受けたため、国際世論を考慮した明治政府は急遽約3000人の遊女の解放する。法的に売春を禁じたわけではない。狡猾な役人のやりそうなことだ。突然解放された遊女は結局廓に戻るしかない。表面上は人権を守るという体裁を整えただけで、現実には、「売春を強いられているのでなく自らの意思で性を売る主体である」と正当化し、遊女や店の自己責任に転化したことになる。江戸とは時代が変わった。意識が変わった。遊郭や遊女を見る目も変わる。江戸の寛容な文化の担い手かアンダーグラウンドな裏世界へと押しやられるのだ。

   この公娼の場は、1956年(昭和31年)に成立した売春防止法によって、翌年その三百年の歴史を終えることとなる。

  現在、日本では売春・買春は禁止である。罰則はないが違法である。(売春を管理する場合や対象が子供の場合は処罰がある)世界に目を向けると、欧米のほとんどの国やアジアではタイや台湾では売春自体は合法だ。それは吉原が生まれたのと同じような理由による。400年経っても人間や社会にとって普遍的で不可避な事案なのだ。女権論者は女性蔑視だと批判するが、一方で自由な職業選択を阻害すると反駁する。

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